バリ島道待娘記事の続きになります。
サヌールから北上して Jl. Gatot Subroto を流しながら、一定間隔で座る道待娘を見学。今度は南下して、ジャラン・レギャンのテロ慰霊碑を目指します。随分と遠回りにはなってしまいましたが。
目的は、そう、車上販売に再挑戦しようかと。
前回は過去記事のとおり、散々な結末でしたから。
◎ポン引きはどこに?
昨年のバリ島遠征時には、かつてあれほどウザかったポン引きがテロ慰霊碑の周辺には全くいなくて、レギャン通りを北上した結果、情けない顛末となりました。
今回も慰霊モニュメントの前で10分ほどウロウロしてみましたが、誰も声をかけてきません。近くに警官の姿があったので、ここでは客引きさせない、という当局の姿勢なのでしょう。
仕方ないので、今回はジャラン・レギャンを南下してみることに。
すると100mも歩かないうちに案の定、若い兄ちゃんが「レディ?」と声をかけてきました。
「此処から近いのか?」「はい!」
「ABG(アーベーゲー、若い尾根遺産の意味)だな?」「はい!」
「よし、じゃあ案内しろ」
◎ポン引きの行き先は
ポン引き兄ちゃんのバイクに跨り、一方通行のジャラン・レギャンを抜け、クタの目抜き通りJl. Kartika Plaza をひた走ります。
もしかして・・・・もしか、しないかなぁ~
この道の先には、かつて現役素人JDを斡旋してくれた若造たちの、たまり場があったのです。
仲介役のタクシー運ちゃんと連絡不能になり、それは8年半になるアジアナイトウォーカーの歴史上でも屈指の、痛恨の出来事。
斡旋屋同士で、繋がっていたりしないかなぁ~
ディスカバリー・モールを過ぎ、しばらく走ったところでバイクは左折。薄暗い路地へと入っていき、50mほど先の左側でバイクは停車。
ここはホテルなのかコンドミニアムなのか、いずれにせよ稼働しているとは思えない古さと暗さ。
建物の前に、何のためなのか小部屋があって、テーブルとソファも。元々は守衛室だったか?
そこには尾根遺産がひとり、薄暗がりのなか座っていました。
◎潰れた宿泊施設は
近寄ってみるとその尾根遺産、見事な丸太ちゃん。年齢は20代の中盤か?いずれにせよ、レベル的に話になりません。
「タイプじゃない、帰る!」
「まぁ、ちょっと待ってくださいよ、ダンナ。他にもいますから」
「サヤ マウ クチル、な!」
まぁ、余程の上玉が登場しない限り、こんな所で遊ぶつもりは元々ありません。車上販売ではないとわかった以上、兄ちゃんがどんなレベルの尾根遺産を連れてくるのか、それだけが関心事。
座っていた尾根遺産が私のために場所を空けてくれ、小部屋のなかで一服しながら次の姫を待ちます。
落ち着いて建物内を観察すると、奥には扉がいくつも。
「ここでするのか?」「はい、可能です、ダンナ」
昨年の斡旋屋も、誰も宿泊していそうにないオンボロなゲストハウスに私を連れていきました。
廃業した?路地奥のゲストハウスやホテルは、こうしてヤリ部屋として再利用されるわけですね。
思い返してみればジョグジャカルタでもスマランでも、ポン引きに案内された先は、すっかり寂れた小規模ホテルでした。
ジャカルタ/ハルモニのホテル跡地置屋も似たようなもの。これもインドネシア流、でしょうか。
◎想定内の結末
昨年もそうでしたが、ジャム・カレ(ゴムのように伸びる時間、の意)のインドネシアで「10分、待ってください」は大抵、30分はかかると思っていて間違いないでしょう。
シビレを切らした頃にバイクで乗りつけてきた2人目の尾根遺産。
ハナから座っていた丸太ちゃんよりは若干マシとはいえ、これまた全く食指が動かないメタボちゃん。
「カワイイでしょ?!どうですか?」
「ダメだ、話にならん!」
「わかりました。あと2人、来ます。今度は本当に10分ですぅ~」と粘るポン引き兄ちゃん。
「3度目の正直」と「2度あることは3度ある」。私はこういう場合、3度目の正直に賭けます。
2013年にバリ島北部シガラジャに案内してもらったとき、斡旋おばちゃんの自宅で同様に、1人目、2人目と大ハズレ。
待つことにいい加減、飽き飽きした頃に登場した3人目が、ド・ストライクだった、あの成功体験がそうさせるのでしょう。
しかし、今回は・・・・惨敗。
値段交渉など、する気にさえなれませんでした。
虚しさに打ちひしがれながら、トボトボとJl. Kartika Plaza まで戻ります。昨年同様、ポン引きは諦めずに追いかけてきましたが、今回は完全無視を貫きました。